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忘郷録

少し昔の話をしよう。

それは今から凡そ15年程前、2005年の冬のある日。
当時8歳だった俺は今日も帰って来ないだろう父親を待ちながら
家の雑事は執事に任せ、一人黙々と本を読んでいた。

父が帰って来ない事などこの頃には別に珍しくも無い事だった。
そもそも俺には父と過ごした記憶そのものが殆ど無い。
母が生きていた頃、5歳以前の時分にはもう少し顔を合わせていた気もするが
今となってはそれも事実であったのか曖昧だ。

有能だが融通が効かず、上層部の憶えこそめでたいが、組織内での対立は絶えない。
今日は何人殺した、明日は何人殺すだろう。その数だけ恨みを買い、尚生き続ける悪鬼。
法治国家に於いて合法的に認められた陸軍特殊部隊という名の殺人鬼の群れの長。
人伝に聞く所の、第三帝国の亡霊。鉄血の狼。神秘弾圧至上主義者。忠実なる殺人機械
とにかく血生臭い悪名に事欠かないのが俺の父、ハインリヒ・ルーヴェンドルフ大佐だ。
座右の銘は「忠誠こそ我が名誉」
今時そんな事を言葉に出せば、一般企業では即座に閑職に回される。
その程度の地雷では在る。現代の国際社会に於いて第二次世界大戦時の
祖国の歴史は問答無用で禁句の類だ。軍人であれば尚更だと言えよう。
だがそれを恥じる事無く明言し、尚軍部の、傍流とは言え組織の長を張っている。
その事が既に異常だった。そしてその事実こそが父の能力の程を明確に告げている。

敵味方を問わず口さがない者は揃って皆こう言う。
“あんなものが人間である筈が無い”と。
実の父を貶める事は甚だ不本意ながら、とは言え同感せざるを得ない。
対面すること自体がそれほど無い為実の父とは言え他人の様な物だ。
だからこそ客観視して言えば、外見はこれと言って特徴が無い。
俺と同じ金の髪はさっぱりと短く整えてあり、虹彩の薄い赤茶色の瞳。
引き絞られた口元に眉によった皺が如何にも厳しい人間性を表しているが、
それだけなら流石に人間ではない、等と言われる事は無いだろう。

そう、人間の外観など装飾に過ぎない。優れていれば確かに目を引くだろうがそれだけだ。
人と同じ姿をしていながら人ではないと称される事が果たして有り得るならば
それはその人間の精神性に根ざしている要素が関わっていると見て間違いは無い。

その男の瞳は、まるで硝子玉だった。
とても対峙している人間を自分と同じ生き物と認識しているとは思えない。
無機質で理解を拒む爬虫類の様な眼差し。目線を合わせれば明確だ、
あれが人間が人間を見る目だどと言うには、例え狂信的な宗教家であろうと
一瞬の逡巡を必要とするだろう。

外観が人間だからこそ、か。人でない物が人を擬態している様な違和感。
それを一言で、且つ最大限に賞賛するなら質実剛健という事になるのだろう。
だがあれはそんな聞こえの良い物ではなかった。言うなればそう、鉄だ。
人の中に鉄の塊が詰まっている。その鉄が意思を持ち人の振りをしている。そんな感覚。
いや、そんな物は幻想に過ぎない。父とて人だ。傷付けば血を流すし、流し切れば死ぬ。
だがあれは例え死の淵に在っても淡々と、その時自分にとれる
最大公約数的意味での最良の行動を取るだろう。
そこに恐怖は無く恐慌も無く混乱も無く波紋もなく苦悩も逡巡も悔恨も、痛む仕草すらない。
例えば大事な人間が2人捕まったとしよう。片方を救えば片方は失う。
究極の取捨選択だ。
どちらも救うと言うご都合な選択肢は無い、努力ではどうにもならない窮地。

その時奴なら、両方見捨てて原因を取り除く。
自分が2つ失っても自分以外が失うかもしれない10の為に行動する。
それは一見合理的な判断だ。だが同時に不条理の極みだとも言える。
果たして見捨てられた側はそれをどう思うだろう。
果たして選択を課した側すら、それが人間の選択かを疑わずにはいられまい。
自分の持っている「相手を大切だと考えている感情」を第一に切り捨てる。
そんな物はもう、人の所業ではない。

自己犠牲だと、美談だと良く知りもしない人間は父の行動を評価するだろう。
けれど犠牲にされた者、犠牲を強いた者、父に関わった全てはそれを見てどう感じるのか。
その結果が、件の風評だ。
“あんなものが人間である筈が無い”

全く、これほど適した表現はない。



そんな父で有ったのだから、当然の如く家族や家庭と言った物は真っ先に犠牲の側へ追い遣られた。
母は跡取りである俺を生み、けれどそれによって夫から愛される事は叶わなかった。
彼女の愛情は自然と俺へと向いたが、それにしては、俺の外見は彼女を切り捨てた夫に似過ぎていた。
悩み、苦しみながらも必死に俺を愛そうとしてくれた母は、けれど皮肉にも彼女の悩みの種である
父が追い詰めた国内テロリストの残党に狙われ、あっけなく逝った。俺が5歳の事である。
その頃の記憶は俺には殆ど残っていない。ただそれ以降、俺の幼年期を支えたのは
父でもなく、母でもなく、執事と乳母と祖父だったと言うのは、
何と言うか酷く異質で、分かり易く歪な話だろう。我が事ながら、それを否定するのは些か難しい。

さて、であれば俺が父を待つと言う行為その物が如何に異常な事であるか、と言う話である。
俺には父と過ごした記憶が殆どない。それは要する所、感覚的には他人と変わりないと言う意味でもある。
血の繋がりは水より薄いとは、良く言った物だ。
俺と父との間には確かに遺伝的な共通項が有るのだとして、けれどそこに絆等と言う物が
育まれる余地など欠片も無かった。いや、より端的に言えば、俺は父を人間的に蔑んですら、居た。
憎しみではない、怒りでもない、恨みですらない。磨耗して乾き切った軽蔑。
それだけが、俺と父とを繋いでいたのだ。


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自分語 その6

事の顛末のみを挙げてしまえばそれほど難しい話ではない。
2011年時の祖国、ドイツは決して治安が良いとは言い難い状態だった。
世界経済は不安定を極め、政治は突然出現した空中大陸パラミタの対応に混迷し
更にパラミタの利権問題でアジア、特に中国と日本に大きく溝を空けられた為
国際社会での発言力にさえ影響が出始めていた。
その上パラミタの発見、魔法の復活、ドージェの台頭と、正に平穏とは真逆の社会情勢。
その中で芽生えた祖国への不信感が人々を無法の道へと誘ったからと言って
果たして誰がそれを不当だ等と言えるだろう。

繰り返す様だが、2011年時の祖国
ドイツは決して治安が良いとは言い難い状態だった。
しかし、俺はと言えば、その事実を全く直視する必要の無い世界で生きていた。
恵まれていたのだ。遮断されていたのだ。同じ国の中の事情だと言うのに。
だからこそ、それは俺にとって理解不能の出来事でしかなかった。

窓ガラスが塗り潰された黒い車が送迎を担当していた執事の車に横付けした、
と思ったら次の瞬間、騒々しい爆発音と共に執事の車が吹きとんでいた。
それを呆然と見ている俺の前で横を歩いていたシルヴァが
黒い車から出て来た2人の、やはり黒い男に拘束された。それを見て口を開く前に
俺はその内の片方に左肩を撃たれ、反動に吹き飛ばされて地面を転がっていた。

シルヴァはそのまま黒い車に引っ張っていかれ、俺はその場に取り残された。
誰かが悲鳴を上げていた様な気が、する。
果たして、上手く太い血管の間を抜けたのか、吹きとんだ車から脱出し
即座に救急車を呼んだ際の執事の応急手当が適切だったのか、
銃痕からはそれほど酷く出血こそしなかったが、
俺はその時の衝撃で血の気が引いてしまい、殆ど動く事が出来ずに居た。

シルヴァは攫われた、俺の目の前で。
俺は何も出来なかった。
これが事の顛末の全てであり、これ以上は自分語ならぬ他人語となってしまうだろう。
俺はその時その場に居なかった。だからこそこれはあくまで幕間に過ぎない。



実行犯は5名、
いずれもパラミタ出現以降急激に規模を拡大した右翼系の新興宗教団体の構成員だった。

2009年に地球でも魔法の復興が為されて以来こうした事例は劇的に増えた。それはそうだろう
科学で解明出来ない謎の力が世界に存在する事が、明確な形で証明されてしまったのだから。
おまけに当時、アジアは未曾有の好景気に沸いていたが、その貨幣が何処から吸い取られた物か
考えてみれば分かりそうな物だ。即ち、アメリカ、ないし欧州諸国である。

日本の諺に隣りの芝生は青く見える、と言う物があるらしいが、
隣りの芝生が正しく青々と茂っており、それが元々は自分の所の芝生だったとするなら
これ以上の皮肉は有るまい。治安同様人心も荒れていた。救いを求めていた。
故に必然、宗教は流行った。それもカトリックでもプロテスタントでもない
魔法を主に用いた新興宗教が突発的に力を持つ事など当時は日常茶飯事だった。

それらを秘密裏に弾圧、解体していたのが、当時軍の特殊部隊の指揮を執っていた
俺の父だったと言うのだから笑わせる。本来その様な仕事は警察に任せるべき物だった。その筈だ。
だが政府は魔法と言う正体不明の力を必要以上に警戒していた。
そして父は必要以上に生真面目であり、実に軍人らしい軍人であり、
そして身内の贔屓目だと嘲笑われても仕方ないが、少なくとも、無能ではなかった。

報復、だったのだろう。恐らくは

攫われたのはシルヴァで、俺は何事も無く帰宅した。
家へ帰り執事と祖父に体の心配をされた。そして何時も通りに自室へ入り
静かな、何普段以上に静かな空間で眠りについた。
その日は夜遅くまで父と祖父の言い合う声が聞こえて来たが
それからは耳を塞いでただ布団に潜っていた。

手が震えていた。
俺には何も出来なかった。
無力な子供でしかなかった。
そう言って、言い訳して、自分の殻で自分の身を固めた。
翌朝

家へ封筒で、シルヴァの右目が送られて来た。

俺はそれを見た瞬間の衝撃を忘れないだろう。例えこの事件その物を忘れ去っても。
冷凍されたその青い瞳は綺麗な球体を描いていた。澄んでいた瞳は白く濁り
所々に血線が走っている。恨みがましく細められるでもなく、
憎々しげに歪められるでもなく、その瞳は俺を見ていた。
確かに、見ている様に、見えた。

“どうしてなんだ"と
“どうして自分がこんな目に合わなくてはならなかったのだ”と
“どうしてお前は無事な姿で其処に居るのだ”と

そう、問いかけている様だった。

俺は知っていた。シルヴァは決してそんな事を問わない事を。
何もかも諦めきったあいつなら、例え片目を無くそうと笑ってみせるだろう。
虚無的な、何も望まぬ瞳で、それでもうっすらと笑ってみせるだろう。
であれば、其処に見たのは正しく俺だ。俺はその瞳に自分を写して見ていた。
何もかも最初から持ちながら、何かを得ようとはしなかった自分、
何もかも最初に奪われながら、何も得ようとはしなかったシルヴァ。
誘拐犯は果たして、何故俺とシルヴァを間違えたのか。
ただの運か、偶然か、俺が幸運で、シルヴァは不幸だったのか。天秤の選択の結果か
いいや、そんな訳はない。

そんな訳はないのだ

それが偶然ではないのだと、部屋に戻り、鏡を見て、
瞳の向こうの自分を見て、やっと理解した。

恐らく、彼らは父の姿を知っていたのだろう。
相手にとっては恨み骨髄に到る仇敵だ、知らない方がおかしい。
そして、その父に似た方を攫った。つまり――

銀の髪の俺ではなく、
金の髪のシルヴァを、だ。

当時の俺は、髪を銀に染めていた。父親と冷戦中である以上それは一種の意思表示だった。
お前と同じにはならない。自分は親の付属品ではない。劣化模造品ではない。
そう思うが故に、俺は髪を父親のそれと正反対の色に変えた。
その子供っぽい反抗の仕方を見て祖父などは大いに笑った物だ。
『獅子(レオン)が銀(ジルヴァン)では格好がつかんな』と
それでも俺はそれを貫いた。今思えば、実に幼い対抗心だった。己を曲げればその時点で
父に敗北するとすら思っていたのだから。そしてその浅慮は、こんな形で報いられる。

翌日、父の助勢とミュンヘン市警の迅速な行動により誘拐の実行犯は合えなく捕縛された。
けれど両目と両腕を奪われたシルヴァは、そのまま還っては来なかった。
何も持たずに生まれ、何も得ようとはしなかった男は、最期まで奪われて、逝った。

少年は望まれず生まれてきた子供で
少年は臨む事も無く死んでいくだけの子供だった
その筈だった

その筈だった

のに

其処から掬い上げられた命を俺が奪った
それは俺の原体験。俺の命は死の上に立っている。

そう

俺が
殺したのだ



次の日の夕暮れ、俺は髪の色を元に戻した
それが俺の、ささやかな反抗期の終わりだった。



一歩、二歩、三歩。
永遠にも等しい三秒間。三秒と言う名の恒久。
そして追憶は舞い戻る。俺と、男。彼我の距離は大凡2m。相手の持つ光の剣が約1m弱。
一歩踏んで一振りすれば相手を殺す事が出来る、絶対的な殺傷領域。
その空間に踏み込んで、その剣の輝きに煽られて

裁きに来たのか?と問うたその人間の顔を見て、悟る。理解する。
何かの因果でパラミタ何て大陸へ送られ、何も持たず、何も持たされず
方々の体で歩んで来たこの数日間、その果てに理由も事情も分からないまま
何の為に有るのかも良く分からないこんな地の底へ偶々に落ちて来てしまったこと

それらは紛れも無く、俺の運命であったのだと

「――そうか――――お前か。」

その――14の夏、少年時代最後の夏に切り捨てた自分。
それに酷似した銀の髪の少年。そこに俺とは確実に異なる蒼い瞳を見取り

思わず浮かんだのは、笑みだった。
神を信じた事など無いが、もしそんな物が居るのだとするなら
心からその存在を賞賛し、同時におもいきり殴りつけてやりたい。
そんな――良い、演出だ

俺は踏み込む。死線の先の更にその先、2mを割る一歩を
対した少年もまた、躊躇無く光の剣を振り被る。思考が先行する
皮膚が明確に向けられた殺気を感知し粟立つ。

そうか、俺を殺すか弱い俺よ。
それはそうだ、かつて俺がお前を切り捨てた以上
お前には俺を殺す権利がある。
例えこの少年が“誰”であった所で、また“誰”でもなかった所で
その姿をしている以上は、他の誰に無かろうと
俺にだけは、俺を殺す権利がある。
つまり、俺はシルヴァを犠牲にして自分はのうのうと生き伸びた臆病者で
その過去を振り払う為に自らの薄弱な誇りすら捨てた愚か者で
そんな事実から逃避する為に、今の今までそれを思い出さない様にしていた軟弱者なのだから。

けれど――
「悪いが紛い物にくれてやるほど――」
死線が通る。踏み込みと同時に態と足を外し、滑り込むように
仰向けに倒れこんだ俺の鼻先を、彼を繋ぐ鎖すら容易く絶ち切った少年の光の剣が通り抜け

「――この命は安くない!!」
次の瞬間、俺がジーンズから引き抜いた自らの皮のベルトが、
蒼い瞳の「俺ではない」少年の足を打ち払った。

自分語 その5

一言で言えば それは僕の知らない誰かの話
二言で言えば それは僕ではない誰かと、彼ではない誰かの顛末
三言で言えば 知らない誰かと 知らない誰かの 出会いと別れ
出会って別れて、混ざって分かれて、歪んで捩れて、撓んで捻じれて、
行き止まって行き詰まった、突き当たって立ち尽くした
それだけのお話。それだけの追憶。それだけの回想。それだけの前例

其処には唯の一片の意味もなく、僅か一言の意義もない。
ふうん、そう、それで?で終わる些細な話。
うん、そう、だから?で途切れる瑣末な語り。
聞いても何の得もない。紡いでも何の益もない
けれども綴っておかざるを得ない、誰も知らない誰かの話。

それでは始めよう。もう一人の僕の、自分語を。



出逢ってからの1年。
それはとても長い様で短い、とても短い様で長い日々だった。
未来から見れば前者、過去へと思いを返せば後者。
1つ間違いの無い事を言うなら、それは彼、或いは俺。
レオンハルトにとっては随分な苦痛だったと言う事だ。
その程度には、影武者と言う奴はこう――酷く癪に障る存在だった。
奇しくも当時は12歳から13歳へ、俗に言う所の第二次性徴期、思春期真っ只中。
反抗期と言う奴だったのだろう。そして同時に、成長期と言う奴でもあった。
それが良かったのか悪かったのかは、未だに言及出来る事ではないけれど、
ともかくその手の御年頃にありがちな精神的な繊細さ――或いは過敏さ――が、
この影武者騒動に大きく揺さぶられた結果、現在のレオンハルトが出来上がった
と言う表現に異論がある者は、当時の彼を知る者の中にはまず居ないだろう。

当時のレオンハルト少年ははっきり言って貧弱だった。ひょろひょろのもやしだった。
東洋ではパッケージ売りで100円にも満たないあれだ。
一人暮らしの強い味方、食物繊維たっぷりんじゃあれだ。
その位には頼りなく、力無く。しかし負けん気だけは強いと言うどうしようもない人間だった。
元々彼の母親は病弱であり、その影響も有ったのだろう。
毎日毎日窓辺で本を読んでは世を儚む様な人間に活力など宿る訳も無く、
彼の父親などはそれを嫌って度々彼の大切な書籍や詩集等をこれ見よがしに焼き払った。

一方腐っても軍人の家系か、例え多少身体が弱かった所で
気位は一人前のレオンハルト少年。例え外観がもやしであろうと三つ子の魂何とやらか、
白面の美少年、と言う形容は結局今一つ馴染まず、当然の様に父親の暴挙には目一杯牙を剥いた。
他方彼の父親も父親で、この親にしてこの息子ありか、頑固な上に冷徹で、しかも大人気無く
少しは譲歩すれば良いものの、テロリストには屈しないとばかりに息子の反抗を
真っ向から切って捨て、状況は一変、途端話がややこしくなる。

要する所、戦力で適わず補給が安定しているのであれば篭城戦、と言う訳だ。
元々の相性も有ったのだろう、母親を早くに亡くし寂しかろうと
筆頭執事が甘やかし過ぎたと言う事情も有っただろう。
仕事が忙しい余り、親の方が家へ帰る事を怠けたのも災いしたのだろう。
両者の譲歩など欠片もない冷戦は丸2年以上も続いた。
その最中に紛れ込んだ異物。つまり、祖父の連れてきた影武者とやらだ。

これが邪魔でない筈が無い。とは言え祖父は幸いと言うか無責任にもと言うか
親子の冷戦に永世中立を掲げていたので、これが父親側に傾いたら困る。と言う
子供なりの打算等もを有った様に思う。受け入れざるを得ない、けれど受け入れたくない。
内心忸怩たるこの二律背反は当然の様に一定の結論を導き出す。

自分が追い出す事が出来ないなら、奴が自分から出て行くと言う様に仕向ければ良いのだ。

普通なら、此処で陰湿ないじめや虐待、引いては露骨な差別や存在否定等が始まる所だろう。
が、流石に恵まれた立場に居る半引き篭もりの病弱もやしは考える事が違った。
『お前からお爺様に出て行くと言うが良い』
と真っ向勝負、正面切って言い放ったのだ。そして、困った事にその相手が悪かった。
『了解した』
そう答えるや祖父に、“シルヴァ”と名付けられたその男はこう言った
『お前からお爺様に出て行くと言え、と言われた』
それで祖父は大体の事情を察し、愚昧なるレオンハルト少年は相応の報いを受ける事となる。
大まかに分類すると、その後1年は大体日々そんな感じで進んで行った。
レオンハルト少年は懲りずにシルヴァを追い出そうとして尽く失敗した。
気付けばシルヴァに向けて文句を言う時間が一日の半分を占める程になっており
もう少し時間が経過すれば、一日で最も多く言葉を交わすのはその自分の影武者と言う
素性も良く分からない男だと言う羽目に陥っていた。

元々の相性も有ったのだろう、母親を早くに亡くし寂しかろうと
筆頭執事が甘やかし過ぎたと言う事情も有っただろう。
仕事が忙しい余り、親の方が家へ帰る事を怠けたのも災いしたのだろう。
気付けば二人の時間は余りにも交わり過ぎ、愚昧なるレオンハルト少年は、
自分が抜き差しならない地点まで来ている事に1年が経過するまで気付きすらしなかった。
当時を知る筆頭執事はその頃の二人を指してこう語る。
“あんなに一生懸命誰かに語りかけるレオン坊っちゃんを見たのはあの時が始めてでしたな”と。

世間一般では、そんな二人の関係を、悪友。と呼ぶのだと
愉快そうに笑う祖父の言葉に割と冗談抜きでショックを受けるのは、更にその数ヵ月後の話。
レオンハルト少年13歳、シルヴァ少年13歳。
対照的な銀と金の髪を持つ以外は何も変わらなかった二人は、この地点から少しずつ変わり始める。



「良いか、僕の半経1m以内に近付くな。それが最大の譲歩だ、分かったな」
「了解した」
シュタイナー学校。正式名ヴァルドルフ・シュタイナー・スクール。
当時レオンハルトが通っていたのはミュンヘン市内に在る
ハスフルトシュタイナースクールと言う学校だったが、
この学校ではシュタイナー教育と言う制度を取り入れていた。
日本領ではあまり馴染みがないだろうが、ドイツでは一般にも比較的良く知られている
教育制度であり、その最大の特徴は7歳から18歳までの12年一貫教育だという点に挙げられた。
小学校中学校高校、等と言う区分はない。当然授験も無い為教育を詰め込む必要も無い。
幼少時代より芸術や美術、文学への接点が極めて多く、
穏やかで自主性に富んだ人格を育む事が出来る。教師もそれらを汲み取り
自らは殆ど指示をせず、空間と目的を与えそれぞれに独自の方法で
その目的を達成させる事で想像力と個性を伸ばす教育制度――の、筈だ。一応は。

実態としてのそれを、実は俺は良く知らない。
俺はそこに3年通い、その後流行り病で目一杯体調を崩した挙句入院し、
その後も父親絡みで諸々あった所為で延々休学していたからだ。
それでも時間は進む。必要な教育は家に呼んだ家庭教師から受けていたが
流石にそろそろ限界を感じていた。その辺りのもやもやもあってか、
父親との売り言葉に買い言葉で復学を決意した当時は13歳。6期生と言う事になる。

元より同学年に友人など居なかった。改めて校門を潜ろうとそれは何一つ変わらない。
しかし学校には自宅には無い本があり、文句を言う親もお節介な執事も居ない空間が在る。
それは良い事だ。良いことの筈だ。筈だったのに、しかしその予定は脆くも崩れ去る。
つまり、シルヴァも同じ学校へ編入させると言う祖父の決定によってだ。

現在と比べれば当時の俺は確かに貧弱だったが、貧弱には貧弱なりの
拘りがある。願望もある。家の外へ出たからには家のいざこざは忘れ、静かで穏やかな
一時を過ごす事も叶うだろうと思っていた矢先の、この流れに俺はいたく不満だった。
祖父と丁々発止と舌鋒を交える事数度、いや、もしかすると十数度か。
結局祖父に丸め込まれた俺は、しかし最後の一線として1つの条件を守り抜いた。

それが冒頭の一言である。俺は外では極力シルヴァに近付かない様にし、
シルヴァもまた俺にはそれほど近付こうとはしなかった。
影武者と言う割に、性格面や嗜好の面では余り似ていないと言うのもあっただろう。
俺は本を読んだり、疑問と対峙したり、と言った知的遊戯を好んだが
シルヴァは身体を鍛えたり、運動したりと言った身体的遊戯を好んだ。
お互いそれほど言葉が多いタイプではなかった為、自然と対話の数も減って行った。
にも拘らず、俺がシルヴァが何をしていたかまで覚えているのは恐らく、
自分でも自覚しないままに奴が何をしているのか、把握しておく癖が、その頃には
もう付いてしまっていたからなのだろう。不本意ながら。

だから、と言うべきか
なのに、と言うべきか
或いは文字通り、何も言うべきではないのか

更に1年が何事も無く過ぎ去った14の夏。
むしろ様々な事があったのだろうが深く憶えてないと言うが正確か。
憶えている事があるとすれば、その年は雨の多い蒸し暑い夏だった。

奴は誘拐される事になる。
影武者らしく、ひっそりと

けれど、俺が見ているその前で

自分語 その4

それは10年程前の話になる。

とある少年が居た。
何も持たない少年が居た。
何も持てない少年が居た。
何も持ち得ない少年が居た。
それは客観的に事実とは些か異なるにしても
紛れも無い主観的な事実でしかなく
そしてこの場合、客観も主観も余り大差は無かった。
彼にとって世界は、中も、内も、痛みしかなかったから。

それを故意にやっていたなら、それはきっとそれだけの話
それを恣意にやっているなら、それもきっとそれだけの話
それを無為にやっていたのだとしても、それはきっとそれだけの話だったのだろうけれど
少年は望まれず生まれてきた子供で
少年は臨む事も無く死んでいくだけの子供だった
その筈だった

その筈だった

のに



2009年初夏。
12歳になったその少年は父に連れられて車で数時間程の距離にある森まで行き
置いていかれた。

普通ならば少年の物語は其処でおしまいだ。
武器も持たず、金も持たず、身を立てるほどの技術も無く、身を守るほどの人脈も無く
生きていける程平凡と言う名の世界は優しくは無い。

けれど何の因果か、森の近所に住む、狩猟を趣味にする爺が
偶然たまたまその日その森を狩場に選んでいた。そして選りに選って、その少年を撃った。
運が悪いにも程があるのか
運が良いのに程はないのか
ともあれその爺はてきぱきと応急処置をした上で、証拠隠滅とばかりに
病院にも警察にも連絡せずその少年を家へ連れ帰ってきた。
と言うかそれうちの祖父だった。

ともあれ、万象は流転し因果は応報する。
それが俺とシルヴァの最初の出逢いであり。
それがシルヴァと俺が別れる最後のチャンスだった。

今になって思えば
見た瞬間から何となく嫌な予感はしたのだ。いや、マジでさ。



ハ―――アハハははあはあっはハハハハははあはハハはハハは八ハハははっはっはハハははは
ああはハハはははああはハハははあはっはあはハハはハアハアはハハはハハはははあはハハは
ははは母はあはははあはははははははははあっはははははははははははははははははっははは
はははははっはははははははははははははははああああああああああああああああああああああ

唐突に、響いたそれは何だったのだろう
笑い?嘆き?怒声?いや、それは喉を磨り潰す様な声の奔流。強いて言うなら、産声だった。
ギチ―――と、鎖が、多重に過剰に無数に繋がれ継ぎ足され蜘蛛の巣の様に張り巡らされた
鎖が鳴って啼いて軋んだ。その軋みに混じって歪んだ、曲がった、声とも思えない哄笑が響く
これは何なのだろう。先ほどまで自分を中心に構成されていた世界が反転した様な違和感。
ギシッギシイ、と鎖が成る。ギリッギリイ、と巣が撓む。笑う、嗤う、哂う。その中央で王が嘲う。
磔にされた聖人ならば、この様には笑うまい
磔にされた罪人ならば、この様には嘲えまい
では、磔にされたのは何だったのか、これは何なのか。
急な変化に思考が付いていけず、俺はその"罪人を見た"
いや、見なかった。見たけれど、見ていなかった。シャットダウンしていた。
異常続きのこの、僅か一週間にすら満たない時間の中で、
当事者である俺の記憶が唯一曖昧なのがこの周辺だ。俺は確かにその人物を見ていた筈だ。
けれど、覚えが無い。覚えていてはいけない。理解出来ない。
ただ漠然と、分かる。それは―――きっと忘れようとして、忘れてしまったことなのだと。

本当に、この時点で俺は何故逃げなかったのか

体感的には次の瞬間。相対的にはその数秒後。笑い声が止む。
この時点では既に手遅れだったと今では分かるが、
当時の俺はと言えば何が起きているのか急展開過ぎてさっぱりだった。
頭が付いていっていない。いや、少なくともその時点で、俺にとって頭は眼球以外
殆ど飾り物だった。それを……油断と言うなら、紛れもなくそうなのだろう。

光が瞬いた。
光が瞬き、鎖が一斉に引き千切られて行った。
俺が目視で確認出来た、その光景を言葉に直すとこれほど陳腐な物になる。
これほど非現実的な物になる。
暗闇に突然沸いた光。
それが何処から出現したのか、その瞬間を俺は置き忘れてしまったけれど、
けれど、瞳を焼く程の強い光でなかったのは憶えている。
ぐるん、と円を描く様に、残像を残して光の線が舞った。
ただそれだけで、罪人を吊るす鎖の10分の1が、それだけにしても幾千を超える
拘束の意志その物が切れて、割れて、折れて、爆ぜて、千切られていった。
今なら分かる。それは『斬られた』のだと。
けれど、その瞬間の俺に分かったのは、
封殺されていた獣が檻から出ようとしている
これは ヨクナイモノ だ

ただそれだけ。
呆然と見守る俺に出来たことは実にそれだけ。
見守る事と、気圧され一歩退く事。数分と言う時間にこれだけの事しか出来なかった。
ならばそう。最善の努力をしない人間に、偶然など微笑むものか。
また一振り。漸く視界がそれをはっきりと映す。
鎖が千切れる、ちぎれてぶら下がる。まるで逆さにたつ墓標の群れの様に
『お前も――……』
光を照り返す何かが俯いたその影の顔で瞬いた。
『お前も――……僕を裁きに来たのか……?』
青く、澱んだ、昏い眼。
眼前の空間全てを憎み、自分を包む世界全てに憤る様な怨嗟に満ちた声。
何を言っているのかは分からない。いや、空間に反響する
その声が届かない筈は無い。けれど、意味は全く伝わってこない。

空回りだ。
俺の思考と同じく、その人影の言葉もまた空回っていた。
まるで間の抜けた歯車だ。
相手が回るからとりあえず自分も回る。しかしどうして全く噛み合ってはいない。
振り払われる光の束。斬り払われる影色の鎖
払っても払っても消えない残光。回っても回っても動かない時計。
止まった世界の中俺はゆっくりと迫るその影を眼に映す。
止まらない時間の中人影は全くに動けないその俺を映す。

一歩、二歩、三歩。
永遠にも等しい三秒間。三秒と言う名の恒久。
何故か、どうしてか、理由など分からない。けれど、強いて後付の理由を仕立てるなら。
予感。直感。或いは共感。記憶は10年程前に再び遡る。



『シルヴァと名付けた』

祖父が拾って来た子供をそんな一言と共に紹介して来たのは
その3日後の事だった。勿論、当時の俺はと言えば今ほど肝が据わってはおらず
何を言われたのか理解するまで数回の瞬きを必要とした。
いや、だってそうだろう。犬猫ではないのだ。人だ。それもどうも捨て子らしい。

セバスが僅か3日で突き止めた所によると、その少年は何処かの馬鹿な男が
育てられる保証も無い程度の財力でつくったは良いが、
凡そ1年強前の世界恐慌の影響でギリギリを軽くオーバーしていた家計は破綻。
借金で首が回らなくなり、どうしようもなくなった挙句に
極力足が付かない様、或いは運が良ければその土地の所有者に拾って貰える様
態々うちの所有する森へ捨てられた。と言う顛末の人間だったらしい。

とは言えその半分は言い訳だろう。其処まで苦労した人間なら、
まさか自分が捨てた子が善意の誰かに拾って貰える何て欠片も思ってなかった筈だ。
それでもそう言う意図があったと思っていれば罪悪感が軽く済む。
とんだ茶番だと思いつつも、俺の目線はずっと
その妙に達観した様な、何処か醒めた目で周囲を見る少年から離れる事は無かった。
此方は相手を拾った家の嫡男。相手は拾われて来た子供。
立場の差は既に歴然だと言うのに対峙して全く竦む所が無い。

生意気な、と言う考えが過ぎらなかったと言えば嘘になる。
けれどその思いは直ぐに霧散した。と言うのも、相手と目が合ったからだ。
其処には何も映ってはいなかった。虚ろと言うのとは少し違う。
強いて言うなら傍観と諦観か。その時の俺に奴を測る事は出来なかったが
今となってはそうだろうと思う。僅か12にして、奴は自分を諦めていた。
自分自身を自分の世界に定義する事を諦めていた。貧困だけではあるまい。
恐らくは心の成長、愛情の享受と言う面でも困窮し続けて来たのだろう。
それは物理的な放棄以前の問題だ。
少年はもっとずっと前から放棄されていたのだろうと思う。
少なくとも、内面的な意味では。

そして一番最悪なのはきっと、諦めて、諦めて、諦めきって、
だからこそ祖父の眼鏡に適ったのだ。と言う事実だろう。
何となくでもそれを気取ったなら、そう、是非もない。
己が無価値であるのに、その男が他者に竦んだりなど
端からする筈も無かったのだ。

そうと分かれば後は惰性だった。相手に価値の無い対面に
此方が態々意味を見出してやる必要も無い。ただ、人形の様に観察した。
目線の位置は殆ど変わらず、むしろその頃は俺の方が低い位だったか。
年齢も同じ。性別も同じ。風体も近い。そして何より、俺と同じ赤い瞳。
それなのに俺と奴は見た目余り似ていなかった。と言うのも、
勿論育って来た環境が違うのだ、纏う雰囲気が違う。
が、そんな無形の物より分かり易い要素として、髪の色が真逆だったからだ。
髪型も違う。だから似ていない。けれどそれは同時に、それ以外はとても良く
似ていると言う証左でもあった。瓜二つと言う程ではない。
けれど、特徴だけを挙げていったなら、その区別は髪でしか付け様が無かった。

うちの祖父はそう言う奇妙な符号を好む酔狂者だった。
シルヴァ、と言うのも恐らくは俺への壮大な皮肉だったのだろう。
俺は内心苦々しく思いながらも、その意図を汲み取った。
汲み取らざるを得なかった。当時、俺は既に実父との不仲を決定的にしていたが
父は父で軍部内でのいざこざに追われ屋敷を留守にしてばかりだった。
留守にすると言う事は忙しいと言う事で、忙しいと言う事は
要領が悪いか有能かのどちらかだ。あまり認めたくは無いが父は後者の人間だった。

その父であればきっとトンでもないと言う事をこそ、この祖父は提案する。
ずっとそうだったのだから察するのは容易だ。
父が一番嫌がりそうな選択をする。それさえ思い浮かべれば祖父の行動は
大体読み取れる。だからそう、この時もそれほど驚きはしなかったのだ。
続けられた祖父の言葉に。それが、どれほど残酷な物だったとしても。

そう、有能であると言うのは同時に、煙たがられると言う意味合いでもある。

『お前の、ダミーを勤めて貰う。覚えておくが良い』

影武者。
合わせ鏡。
もう一人の自分。

シルヴァ。

どれだと表しても余り大差ない。それらは全て符号に過ぎない。
ともあれそうして俺はその男と出会い、
祖父の独断の下、何故か共に在る事になってしまった。
どうしてその時そんな非常識な話を受け入れてしまったのか
今考えてみても不思議に思う。

けれど全ては過ぎてしまった話。多分全ては始まってしまった話。
これはそこから延々続いたプロローグの終わり。
漸く辿り着く、もう一人の自分の物語。

自分語 その3

浮遊感。
そう言ってそれを直ぐ様思い描ける人間が一般的でない事位は分かっている。
今時ジェットコースターに乗った事が無い人間もそう居る物では無いと思うが、
一方でスカイダイビングを経験した事が有る人間はそう居る物では無いだろう。
浮遊感、そして落下。
この感覚は前者に遠く後者に近い。何も無い闇へ落ちていく光景と言うのは
むしろ遊具的で、後者に遠く前者に近いのかもしれないが、
如何せん俺がそう居る物では無い筈のジェットコースターに乗った事のない人間であり、
そう居ない筈のスカイダイビングを――より正確に言うなら空艇降下を――
経験した事の有る人間であった為前者と後者の比較は不可能だった。



まあ、そんな事情を長々説明しても仕方ない。
俺、レオンハルト・ルーヴェンドルフは落ちた。
落ちて落ちて落ちた。距離にして20m位だろうか。一刹那と言うにはやや長く
一瞬と言うにもやはり若干長い。けれど一呼吸には足りない時間。
落ちて、まあ普通なら死んだだろう。
鍛えている鍛えていないと言う問題ですら無い。人間の首は脆く頭は重い。
前のめりに縦穴へ20m程落ちたなら下が何であれ自然界では大概死ぬ。
容赦無く他愛無く間髪無しに死ぬ。実際俺は死を覚悟した。
覚悟、いや、そんな覚悟直ぐに出来る筈が無い。
有り体に言って状況を理解する時間すら無かった。
知覚する前にぶつかって、覚悟する前に引っかかる。
後から理解が追いついた時には既に死の覚悟ではなく生の事実しか転がっておらず
転がる余地がない位俺もまたこんがらがっていた。
逃げ場がない位絡まって、逃げ道がない位絡まれていた。
この時点で落ちた先が自然で無い事は、
落ちた事が偶然で無い事は確定しているも同然だったのに

それが不自然であるのは一目瞭然で
それが人工であるのも逆説当然で
それが作為であることは必然極まりなかったのに
それに引っかかって、そこが引っかからなかった。
そこで引っかからなかったからむしろ引っ掛かってしまったと言うべきか。
確り絡まっている癖に絡め取られている事に気付かなかった。
所詮は神ならぬ人の身であれば
運命の女神と言うのがもし本当に居るのだとしたら、
その女神は笑顔を浮かべ人を意のままに操る最悪と言う名の策士家だろう。
或いは意に沿った歌しか認めない災厄と言う名の作詞家か。
欺瞞にも程が有り、戯曲にも程が有る。
引っかからなくてはならない点に気付かないまま
俺は引っかかっていた、鎖で出来た網に。巨大なクモの巣の様な銀色の網に。
まるで落ちて来るのを待ち侘びていたように
まるで堕ちて来るのを待ち続けていたように
じゃらんじゃらりじゃらり、と細く細く張り巡らされ、
ぎしりぎしりぎちり、と太く太く寄り合わせられた鎖が鳴った。

―――――――――――――――――――
――――――――――――
―――――E
―――――――――――――――

たっぷりと、間を開けて響いた。
それが声だと認識するまで声の間に倍する時間を要した。
暗闇だ。
真っ暗闇だ。
方角も分からなければ上下すら不鮮明。
地面にぶつかり顔がひしゃげる事は避けられた物の、
鎖に引っ掛かった位で消えるほど重力と言うのは甘い物では無い。
身体中に引っ掛かった鎖に引っ張られて引き伸ばされて
分散した落下エネルギーはきっちりと体内で消費され、
リバウンドする身体に鞭打ちにも近い痛みを思う存分自己主張している。
と言うか正直に言えば引っ掛かった際の反動で呼吸が止まった。
軍人学校での戦闘訓練で痛みには大概慣れていると思っていた俺ですら
息を吸うのを忘れる位の激痛だった。
けれど、折れて無い。折れてはいない。あばらが痛く肩の筋をひねった様な
感覚は有るが熱は徐々に引いて行く。身体に鎖の跡が暫く
残りそうなのはこの際やむを得ない。折れてなければ良し。とりあえずは、いや、
死ぬ事と比較すれば大概の事は"良し"だ。

痛みと突然の状況変化にぐちゃぐちゃに混濁する思考を無理矢理まとめ上げ、
呼吸する。理不尽でも理解不能でも呼吸すればとりあえず脳に酸素が行く。
戦場と同じだ。分からないからと止まって居たら死ぬ。俺は未だ死ぬ気は無かった。
覚悟して無くて良かったと言うべきか、考えは直ぐに切り替わった。
声がした。そう、声がした。あれが幻聴で無いなら居る。
何か居る。敵か味方か中立か、無害か有害かは不明ながら何か居る。

俺は腰に手をかけた。勿論武器など無い。持ち合わせが無い以上武器になる物は
何でも使わなくてはならない。相手が何か分からないのに徒手空拳は無茶過ぎる。
そして現状武器になる物と言えば上着とベルト、後は引っ掛かっている鎖位の物だろう。
戦力比較すら出来ない状況。突発的緊急事態である以上臨機応変に対応するしか無い。
先ずは自分の足場の確保。鎖にひっかかかった手足の動きを確認し、
相手への返答は控える。相手に特別敵意が無いなら1度までは返答をしなくとも問題無い。
相手が此方の存在を確認するつもりで誰何の声を上げ、且つ敵であるなら
声を上げるのはリスクにしかならない。此方は呼吸をしているのだ、
例え真っ暗闇とて聴覚のある生き物で有れば此方と同様「誰か居る」事位は気付くだろう。

戦場では思考を止めた者から脱落して行った。
その経験が状況把握と同時進行で自分の前に次々と選択肢を出現させていく。
適切に、的確に、冷静に、順当に、正しいと思われる選択肢を選ぶ。
要するに、生きるとは取捨選択だ。取捨選択で有る以上選択を放棄すれば
放棄するだけ生き難くなる。"誰か"に選択権を奪われてはならない。
主導権を奪われ続ければ何れ生殺与奪権まで奪われる。考えろ、考えろ、思考を廻せ。

―――――――――――――――――――
――――――――――――
―――誰。

続く声。響いたそれは先よりもはっきりと、確りと、明朗に響き、消えた。
時間にして数秒……精々十数秒。声に答えないと言う選択をした事で稼いだその時間は
状況に劇的な変化を齎す。つまり、暗順応。何処かからか僅かなりと光でも入っているのか
完全な闇等有り得ないと言う様に視覚は正確に情報を伝える。
それは時に嘘で
それは時にフェイクだったりする物だとしても
人はやはり世界を視覚で汲み取る生き物なのだろう。
見える事。それは大きな利点だった。此方が見えるとは――あちらも同じ人間であれば
やはり見えると言う事なのだろうから。
既に答える必要は無い。俺は見た。見た時点でそれが答えだった。
其処に居たのは―――罪人だ。
それが事実であれ、事実無根であれ、誰が見てもそう感じる。
それ程に、そのオブジェは罪に塗れ、罰で敷き詰められ、明らかな異彩を放っていた。

罪禍への贖罪、それ以外の何物でも無い。
それ以外の何物にもなり得ない。それにしても異常でしかない光景。
視界を埋め尽くす鎖、鎖、鎖、鎖、鎖、鎖、鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖
鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖
鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖
鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖鎖
鎖と言う名の怨嗟の群れ。

相手が同じ人間であり、同じ人間がそれをしたのであれば、
それをした人物は罪人に違いなく、そこに居る人間は罪人に違いないだろう。
俺にそれを救う理由など無かった。ある筈が無い。道理も、合理も、条理も無く
ただ落とされ、ただ落ちて来ただけの俺には、それを問い掛ける義理すら無い。
例えその怨嗟の渦の中央に、響いた声の主が居るのが分かったとしても。

そう――人。
その大柄でも小柄でも無い、中途半端な大きさの人型は
無数の、数え切れないと言う意味では無限と同義である無数の、
数える余地が無い程に無数の鎖に繋がれて、
結ばれて、縛られて、束まれて、捕まって、張り付けられていた。
罪人の――或いは聖人の様に
首、腕、肩、足、腰、腿、足首。そんな生易しいレベルではなく
指の関節一つから髪の一本に一本に至るまで、拘束されていない場所が無い程の拘束。
束縛以外の何物でもない束縛だ。偏執的に、確執的に、妄執の様に封じ、封じ、封じ込めた。
動作も反応も存在も尊厳も衝動も情動も理性も狂気も自由も言論も精神も意志も価値も心も命も魂も
その人間の構成要素全てを余さず漏らさず欠片の憐憫も躊躇いも無しに
封じ尽くした結果、封じ切った終点、封じ殺した末路が―――其処には居た。

『――――――――――――――――あなた
―――――――――――は
―――誰。』

問い掛けは3度。鎖がじゃらりと鳴って、ぎちりと鳴いた。
じゃらりがじゃらりを、ぎちりがぎちりを呼び、招き、一つの大きな楽器の様に
空洞に張り巡らされた殆ど全ての鎖が鳴いた。

何故だろう。こんなとんでもない状況で、
こんなとんでは愚か落ちてすらいた状態で
こんなおちきった状景で
俺はどうして逃げなかったのか。
遮二無二に、我武者羅に、無我夢中で逃げようとしなかったのか。
今となっても分からないのか
今となってしまったから分かれないのか
とりあえず、俺はこの瞬間、また間違えた。
自分で再三言い続けていた事なのに。
自身に再三言い続けていた事だからか。
自己への再三の確認を怠って、俺はその罪人へ目線を向けた。

向けた瞬間、多分俺の思考は完全に止まっていた。
その余りに凄惨な光景に
その余りに凄絶な風体に
その余りにも無残な造形に
"相手が拘束されている"と言うたったそれだけの現実に
止まって、留って、高を括って、知ったつもりで、安心して、慢心して、油断していた。

停滞の終わりは何時でも唐突だ

地の底に落ちたからと、誰がそれが底だと決められると言うのか。
無数の鎖で、無限の鎖に、無謬の鎖と繋がれた人間なんて
正しく最悪な欺瞞で、災厄に戯曲的だったと言うのに
ジェットコースターにすら乗った事のない俺には気付けなかった。

落ちは最後に待っていると言う当たり前の流れにも、
自分が未だ、運命と言う縦穴を落ち続けている事にも。



そして直ぐ様後悔する事になる。
プロフィール

獅子神るどるふ

Author:獅子神るどるふ
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